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- フェアライトの歩み 誕生から現在、そして明日へ -
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過ち
最初の不吉な前触れは、MIDIを装備したコンピュータのアタリSTと1985年にアカイのサンプラーS612が発売されたことでした。
その後数年にわたってS900とあのS1000が続いて発売されます。フェアライトの価格の何分の一かの価格でシーケンスとサンプリングが
可能になったのです。その結果 、1987年の英国でのフェアライトの販売は、スティーブン・ペインが輸入販売代理をやめるほど落ち込みました。
S900、S1000やアタリとの競合の以外に、CMIは音楽市場で飽和点に達したと彼らは判断したのです。
英国だけで50台を販売した後、CMIを買える見込みのある顧客はもうほとんどいませんでした。
また、フェアライトは、フォーカスをポストプロダクション市場に移そうとしていました。
ペインはこの市場のことをあまり知らないので取り扱う用意がないと感じたのです。
英国でのフェアライトのエージェントはHHB社が引き継ぎました。そして、一台も売ることができなかったのです。
フェアライト内部でもすべてが順調とは言えませんでした。キム・ライリーは、ヴォーゲルも自分もほとんど事業経験がないということに気づきました。
マーケティングと経営面 の人材、そして追加資金を得るため、彼らは、80年代半ばにウェスタン・パシフィック社を
筆頭とするベンチャーキャピタルを受け入れることを決めていました。しかしながら「80年代の成長があまりに急速で、
特に米国事務所の開設営業などの危険で代償の大きい過ちを犯し」てしまったのでした。そればかりか、87年の株式市場暴落の後、
人々は資金を自分の手元におくという傾向が一般 化し、高価なフェアライト製品の販売に追い風は吹きませんでした。
一方、シンクラビアを製造しているニューイングランドデジタル社は、株式市場暴落の直前に500万ドルの資金を調達し、
製品を購入した顧客に資金面 の面倒をみることができたのです。これも、フェアライトの販売が落ち込む要因となりました。
これらの要素から判断すると88年後半のあのフェアライトの凋落は不可避だったように思われます。
しかし、実際には社内では多くの製品が動いていたとライリーは、記憶しています。CVIの売れ行きは順調、
CMIは、MFX(Music and Effects)という新しく追加されたサウンドデザイン機能により新規の売り上げを得ていました。
短期のキャッシュフローの問題はありましたが、一年以上前からベンチャーグループが会社の経営管理を行っており、
解決することを約束してくれました。ところが残念なことに役員会の「操作」によってベンチャーキャピタルは冷たい仕打ちにでたのです。
(ライリーは、訴えられることを恐れてオフレコでその内容を教えてくれました。)突然、何の前触れもなく支援を引き上げました。
役員達は、銀行にこのことを告げるしかなく、会社は管財人の管理下に置かれました。
一方、世間ではサンプリングとシーケンスがあふれるようになっていました。革新的で素晴らしい音楽制作ツールの質は
クオンタイズという最小公分母まで落とさざるを得なかったのです。サンプリングライブラリーの隆盛により多くのレコードがロボットのような、
どれも同じサウンドになっていました。フェアライトというおとぎ話は、カネの世界だけでなく音楽の世界でも不幸な結末に終わったかのように
思われました。
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